小早川秀秋はただの裏切り者だったのか?歴史の教科書にはない史実を追う
歴史大好きなおきです。
本日は「天下一の裏切り者」として有名な
「小早川秀秋」
にスポットライトを当てていきます。
歴史の教科書などから分かるのは、
「関が原の戦いで家康に寝返った」
「寝返りに大ブーイングを受けて、天下一の裏切り者と呼ばれるようになった」
くらいですよね。
それだけだと面白みも何も無くないですか?
実は調べるほど、太く短い生涯を生きた、小早川秀秋像が出てくるのです。
このブログをきっかけに、歴史の出来事だけでなく、その背景にも興味を持って頂けたら嬉しいです。
推測や偏見も入っているので、一つの説としてみてもらえたらと思います👍
豊臣秀吉の養子だった
小早川秀秋は、実は4歳から豊臣秀吉の養子になっています。
一時期、秀吉の後継者になるかも?というところまでいったそうな。
(その後、秀吉に実子が生まれたのをきっかけに小早川家に移っています)
そのため、西軍(豊臣方)にとってかなり大きな存在でもありました。
また領地も小早川家の37万石、その後筑前(博多のあたり)に移り59万石になるなど広大でした。
元々東軍(家康)の味方だったが、事情により西軍に入らざるを得なかった
小早川秀秋は元々東軍寄りで、敵対する意思が無いと家康に伝えていたと思われます。
関が原の戦いでも、元々は家康の要請をうけた別の戦い(上杉討伐戦)のために、九州から兵を動かしていた所だったそうな。
その行軍途中で関が原の戦いが勃発。
秀吉の養子だったこともあり、道中の大阪で西軍に組み込まれて抜けられない状態になります。
その時の大阪は西軍だらけ。
東軍の味方をしたいのに西軍は抜けられない、というジレンマに悩まされていたのでは。
そのまま東軍に移るタイミングを無くした結果、関が原での寝返りを選ばざるを得なかったのかもしれません。
21歳の若さでこの世を去り、悪名を晴らすことができなかった
小早川秀秋は関ヶ原の戦いの時点で19歳。
その2年後に病気で亡くなるんです。
関が原の戦いでの貢献を認められ、さらに
長生きしていたなら、もっと別の理由で名前が残っていたかもしれません。
小早川秀秋は色々な面で惜しまれる人物だった
豊臣家との関係、秀吉からの期待、そのために背負った実力。
小早川秀秋は、「ただの裏切り者」というには余りにも大きい存在でした。
寝返ったことは事実ですが・・・そもそもの出自、状況、そして年若かったことなど、小早川秀秋の苦悩が思い浮かばれます。
出自も実力も確かな小早川秀秋。
それが「天下一の裏切り者」という風評だけでは、ちょっと寂しいと思う今日この頃です。